(株)地球市民雑貨店
代表取締役社長
土谷芳弘の自分物語です
自宅近所の聖霊病院産婦人科の一室で生まれる。
うっすらと記憶にあるのが、3才の頃近所で迷子になり散髪屋のおじさんに保護されて、じいちゃんが自転車で迎えにきてくれた、とても優しい爺さんだった。
4才の頃爺さんが死んだ、優しい寝顔をしていた、みんななんで泣いてるのか不思議に思った。
聖霊保育園に入園、母さんと離れている時間が悲しかった(保育園なので時間が長かった)、学園祭の演技大会でいつも主役、ダンスが得意だった。
その頃から足が早かった、運動会ではいつも断トツ一位、カモシカ少年と言われた。音感も良くマリンバを演奏した。
金沢市立長土塀小学校入学、1、2年生の頃は弱虫で女の子にいつも弄られていた、でも嬉しかった。変わらず足は早かった、運動会負け知らずの常勝一位。
6才年上の兄がいた、兄を担当していた担任教師にお兄さんの方が頭がいいねと言われショックで1週間学校を休んだ、翌年その担任は他の学校へ転任した。
小学校2年生の時、変なおじさんに騙され、この空き地で今日ゴジラの映画上映会やるから人を集めるようにと言われ、近所のガキ連中を集めたが結局上映会はなかった、悲しかった。
勉強は苦手だったが、体育と音楽の成績はずば抜けてよかった。
小学校3年生の時、砂場でビー玉パチンコが流行り、砂でゲーム台を作るのだがなかなか上手に作れなくて、いつも損ばかりしていた。そこへ現れた若林という名の1年下の後輩、彼に台の作り方を指導してもらい、一躍ビー玉富豪になる。
若林とは今でも付き合いがあり、彼の不用品をヤフオク、メルカリに出品代行している。元若林自動車の社長なのでブランド品をたくさん持っていて高値で売れる、経費を差し引いた落札額の半分を貰っているのですごく助かる。
小学4年生の時は缶蹴りが流行っていて大和紡績の社宅の空き地でよく遊んだ。そこの住人のタクミくんの家に遊びに行くとお母さんがお菓子を出してくれてお腹がいっぱいになるまで食べて屁をこいた、気持ちよかった。
冬は百人一首が人気があり練習で明石くんの家へ行った、彼のおばあちゃんが優しくていつも饅頭をたくさん貰った、食べすぎて下痢になり正露丸を飲んだ、その時の癖が今でもありお腹の調子が悪い時はいつも飲んでいる、飲みすぎて便秘状態になることもしばしばである。
小学5年の時、吹奏楽部に入った。最初はクラリネットのちにアルトサックスを演奏した、演奏したというより音を出してただけである、楽器の演奏は難しいと気がついた。
並行してサッカークラブにも入部した。運動神経抜群だったので一躍ヒーローに、小学校後半はサッカー 一筋で女の子には目もくれず体育会系硬派であった。 でもモテた(笑)。
うっすらと記憶にあるのが、3才の頃近所で迷子になり散髪屋のおじさんに保護されて、じいちゃんが自転車で迎えにきてくれた、とても優しい爺さんだった。
4才の頃爺さんが死んだ、優しい寝顔をしていた、みんななんで泣いてるのか不思議に思った。
聖霊保育園に入園、母さんと離れている時間が悲しかった(保育園なので時間が長かった)、学園祭の演技大会でいつも主役、ダンスが得意だった。
その頃から足が早かった、運動会ではいつも断トツ一位、カモシカ少年と言われた。音感も良くマリンバを演奏した。
金沢市立長土塀小学校入学、1、2年生の頃は弱虫で女の子にいつも弄られていた、でも嬉しかった。変わらず足は早かった、運動会負け知らずの常勝一位。
6才年上の兄がいた、兄を担当していた担任教師にお兄さんの方が頭がいいねと言われショックで1週間学校を休んだ、翌年その担任は他の学校へ転任した。
小学校2年生の時、変なおじさんに騙され、この空き地で今日ゴジラの映画上映会やるから人を集めるようにと言われ、近所のガキ連中を集めたが結局上映会はなかった、悲しかった。
勉強は苦手だったが、体育と音楽の成績はずば抜けてよかった。
小学校3年生の時、砂場でビー玉パチンコが流行り、砂でゲーム台を作るのだがなかなか上手に作れなくて、いつも損ばかりしていた。そこへ現れた若林という名の1年下の後輩、彼に台の作り方を指導してもらい、一躍ビー玉富豪になる。
若林とは今でも付き合いがあり、彼の不用品をヤフオク、メルカリに出品代行している。元若林自動車の社長なのでブランド品をたくさん持っていて高値で売れる、経費を差し引いた落札額の半分を貰っているのですごく助かる。
小学4年生の時は缶蹴りが流行っていて大和紡績の社宅の空き地でよく遊んだ。そこの住人のタクミくんの家に遊びに行くとお母さんがお菓子を出してくれてお腹がいっぱいになるまで食べて屁をこいた、気持ちよかった。
冬は百人一首が人気があり練習で明石くんの家へ行った、彼のおばあちゃんが優しくていつも饅頭をたくさん貰った、食べすぎて下痢になり正露丸を飲んだ、その時の癖が今でもありお腹の調子が悪い時はいつも飲んでいる、飲みすぎて便秘状態になることもしばしばである。
小学5年の時、吹奏楽部に入った。最初はクラリネットのちにアルトサックスを演奏した、演奏したというより音を出してただけである、楽器の演奏は難しいと気がついた。
並行してサッカークラブにも入部した。運動神経抜群だったので一躍ヒーローに、小学校後半はサッカー 一筋で女の子には目もくれず体育会系硬派であった。 でもモテた(笑)。
高岡町中学校に入学した、部活には入らなかった、小学生の頃からやってきたサッカーを続けたくて長土塀サッカー少年団に入った、練習は週3回だったので勉強時間はたっぷりあったので成績はよかった、好きな女の子は陸上部にいた。
少年団の夏の合宿は大阪千里のキャンプ場、ちょうどその頃大阪万博をやっていて会場に近いところだった、ぼくはグループの班長をしていた。みんなで近くのプールへ行った、しまった、、、みんなで準備体操をやるのを忘れた、、、2年後輩の木村くんが心臓麻痺で溺れて死んだ、とても可愛い後輩だった。少年団は解散になった。1年先輩の北川さんから『お前、足速いから陸上部に来い』とお誘いがあった。好きな子が陸上部にいたのであまり考えず即決で入ることにした。余談ですが(当時の高岡町中学は長土塀、芳斉、松ヶ枝の3小学校合同)で高中の7不思議と語り継がれるほどの古い校舎でグラウンドは直線で40mしか取れませんでした。
陸上部に入ったが好きな子には、声もかけられず悶々とした日々を過ごした。当時、池岡悟先生率いる高中陸上部は名門で全国ランキングに入る選手を輩出していた。練習も厳しかった。冬は構内の廊下が練習場所になる、嶋中先輩の指導でハードルの特訓を受けた。中2の夏北陸3県大会で風邪で熱を出した中橋先輩の代わりに400mに出場、なぜか決勝まで進む、が、走り終えたら苦しくてゲを吐いた。
中2の秋、県新人大会の100,200で雨の中大会新を出して優勝、一躍県陸上協会から注目を浴びる選手になる。
キャプテンだったので好きな子にマッサージをしてやった、主将特権である。
中3の春、市大会で11.4秒の県新記録を出す。憧れの筒井さんの記録を塗り替えた。(余談になるが桜ヶ丘の陸上部で憧れの筒井さんに出会ったら、ただのオヤジだった)
北陸3県大会の1週間前、長土塀校下のソフトボール大会に出た、格好付けようと2塁へ滑り込んだら腰の外側を擦りむいた、翌日からひどい痛みで脚が上がらなくなる。優勝候補筆頭だったが2位に甘んじる、悔しかったが自業自得。
秋の全日本ジュニア大会では決勝まですすめなかった。
少年団の夏の合宿は大阪千里のキャンプ場、ちょうどその頃大阪万博をやっていて会場に近いところだった、ぼくはグループの班長をしていた。みんなで近くのプールへ行った、しまった、、、みんなで準備体操をやるのを忘れた、、、2年後輩の木村くんが心臓麻痺で溺れて死んだ、とても可愛い後輩だった。少年団は解散になった。1年先輩の北川さんから『お前、足速いから陸上部に来い』とお誘いがあった。好きな子が陸上部にいたのであまり考えず即決で入ることにした。余談ですが(当時の高岡町中学は長土塀、芳斉、松ヶ枝の3小学校合同)で高中の7不思議と語り継がれるほどの古い校舎でグラウンドは直線で40mしか取れませんでした。
陸上部に入ったが好きな子には、声もかけられず悶々とした日々を過ごした。当時、池岡悟先生率いる高中陸上部は名門で全国ランキングに入る選手を輩出していた。練習も厳しかった。冬は構内の廊下が練習場所になる、嶋中先輩の指導でハードルの特訓を受けた。中2の夏北陸3県大会で風邪で熱を出した中橋先輩の代わりに400mに出場、なぜか決勝まで進む、が、走り終えたら苦しくてゲを吐いた。
中2の秋、県新人大会の100,200で雨の中大会新を出して優勝、一躍県陸上協会から注目を浴びる選手になる。
キャプテンだったので好きな子にマッサージをしてやった、主将特権である。
中3の春、市大会で11.4秒の県新記録を出す。憧れの筒井さんの記録を塗り替えた。(余談になるが桜ヶ丘の陸上部で憧れの筒井さんに出会ったら、ただのオヤジだった)
北陸3県大会の1週間前、長土塀校下のソフトボール大会に出た、格好付けようと2塁へ滑り込んだら腰の外側を擦りむいた、翌日からひどい痛みで脚が上がらなくなる。優勝候補筆頭だったが2位に甘んじる、悔しかったが自業自得。
秋の全日本ジュニア大会では決勝まですすめなかった。
中三で陸上100メートルの県記録を出したので桜ヶ丘陸上部の山口さんからうちに来ないかと誘われた、富山の商船高専に行って船乗りになりたかったので断った。父母が反対してしかたなく桜ヶ丘に入学した。入学前から陸上部の春合宿に参加した、半年間練習してなかったので結構しんどかった。
入学式の時タイプの子がいた、クラスが一緒だった、名前はヒ・ミ・ツ。北國新聞の映画試写券応募で自分とその子の分を応募したら自分は当たったがその子が当たったかはわからない、恥ずかしくて聞けなかった。その時見た映画は燃えよドラゴンとアメリカンフィフティズーだった。
英語がいつも赤点でいつも先生にどつかれていた、悔しかった、、、英語はこんな勉強してちゃダメなんだと言ってやりたかった。中学時代からNHKの英会話を聞いていたから。
自分の持てる時間は走ってばかりいた。勉強はしなかった、する時間がなかった、部活の練習から帰るのが9時それから晩飯を食うと眠くなる、真夜中に目が覚める、で、机に向かうのだがラジオのオールナイト日本を聴いてたら勉強にはならない、朝の4時ごろ寝て7時に起きる。そんな生活、、、
叔母さんが癌で亡くなった、とてもやさしくて美人な方で小さい頃めんどうを見てもらった。人はいつか死ぬ、、、
硬派だった自分は女の子とデートしたこともなかった、もし愛の告白されていたらすぐにやっちゃっていたと思う、毎時間ビンビンだもの(笑)陸上部の1年先輩で毎日女の子と一緒にいる人がいてとても羨ましかった。あへて誰とは言わないが、、、
北信越大会の200mで22.9秒のタイムを出して翌年の日本選手権の出場権を得た。冬は猛練習をした、翌年の選手権はモントリオールオリンピックの選手選考会を兼ねていたのである。
インターハイの予選には出ないで日本選手権に出たので顧問の先生に陸上部を勘当された、学校からの交通費補助が出なくて自己負担した、そ、そんな〜。
東京の叔母さんの家に泊まったのだが、幼い従兄弟兄弟が麻疹にかかっていて、2週間後自分もかかるなんて、、、。
200mに出たのだが、予選で太もも裏側の肉離れで120メートル走った後棄権した、そこまではトップを走っていたのに。
陸上競技人生はこれで終わった。
部活がなくなったらいきなり暇になった。初恋も経験した、初めてラブレターを書いた、3回デートしたが振られた、手も握らなかった。悶々とした時間は男友達と金沢市内の喫茶店巡りをした。お気に入りの喫茶店は橋場町の禁煙室、此の花町のティーランド、片町のラテン小唄、ジャズ喫茶ヨーク。文化祭や体育祭の行事にも積極的に参加した、学校生活がこんなにも楽しいもんなんだと感じた。
当然のごとく(高校時代は勉強しなかった、走ってばかりいた)大学入試は早稲田の政経学部を受験して落ちた、そのころから一か八かの賭けが好きだった、受験も賭けだと思っていた。これから楽しい楽しい浪人生活が始まる。鐵工所のバイトは1日行ってやめた、大工のバイトは2日行ってやめた。相変わらず金はなかった、自宅浪人で予備校には行かなかった、両親も何も言わなかった。成績が悪かった英語を集中的に勉強したかったのでNHK英会話の講師で有名だった松本亨高等英語専門学校の夏期講習を2週間受けた、そこでThink in English英語で考えよを叩き込まれた。英語の勉強方法はこれだと思った。その頃から漠然とアメリカに行きたいな〜と思った。学校で知り合った鎌倉の女の子と初キスをした、餃子の匂いがした、、、レモンの味じゃないのか!!
19才 童貞 彼女いない歴19年
悶々とした日々を過ごしていた、我慢ができなくて野町石坂に行った。赤提灯のスナックに入った、年配のおばちゃんがいた、(え、この人とやるのか?)テーブルに座り会話が始まる。おばちゃん言う(若い子いるよ)、俺安心した。値段の交渉、おばちゃん(3万でやれるよ)、俺答える(2万円しかないげけど、、、)、おばちゃん言う(それじゃ〜40分だね)。20分後に背の高い若い23ぐらいの女性が来た、顔はタイプじゃなかったが体は超タイプだった。ビンビンになった。彼女に連れられて旅館に行った、布団が敷いてある部屋に通された。彼女との会話始まる、彼女言う(お兄さんモテるでしょう、彼女いっぱいいるんじゃない?)俺答える(あの〜今日初めてなんですけど、、、)彼女言う(うっそ〜童貞?)、パンツ脱いで布団に仰向けに寝てと誘導された、いきなり***を触ってきた、コンドームを取り付けてくれた(大きいわね〜といわれたらさらに硬くなった)。いきなり彼女が布団に仰向けで寝転んだ、そして言った(中に入れて)入れると何故か萎えてきた、彼女は手でしごいた、かなり長い時間だ、彼女言う(もう時間よ)、初体験は不発に終わった余計に悶々とした。俺には愛のないSE*はできないと思った。けっきょく童貞とおさらばしたのは2年後21才の時である。
あの野町の不幸な出来事から2ヶ月、片町のブラザービル6階にあったニューモンブランでバーテンダのアルバイトをはじめた。そこで知り合った美人ホステスにすべてを教わった。
教わったのはカクテルの作り方である。美少年だった俺は女性のお客さんからダンスに誘われた、タンゴを踊った。そしてダンゴをたべた。
同僚のカズちゃんのお客さんで松任だったか小松だったかで寿司屋をやっている親父がいた。そのオヤジに金沢の寿司屋に連れて行ってもらった、握り寿司店へは初めて行った、感動するおいしさだった。後で知ったのだがそのオヤジが小松弥助の大将😅😅😅お世話になりました、ありがとうございます。
二十歳の誕生日(4月16日)を迎えて2ヶ月後、俺は羽田空港にいたチャイナエアライン、ハワイ経由ロスアンゼルス行き。中学の陸上部の先輩嶋中さんが見送りに来てくれた、嬉しかった。
あ、金髪のスチュワーデスが近づいできた。俺[Can I have Gin and tonic?]スッチー[Sure]しばらくするとジントニックが運ばれてきた。英語が通じた。
ハワイのイミグレで入国審査、3万ドル持ってるから半年間ホテルに泊まれると言って滞在期間6ヶ月貰ったが実際の手持ちは300ドルだった。ハワイにはホノルル空港に2時間滞在しただけだった。蒸し暑く感じた。
空から見るロスアンゼルスはだだっ広くて赤茶けてた。空港に代理店の人が迎えに来ていて、滞在家庭が見つかるまでモーテルで待機しているように言われる。連れて行かれたのがハリウッドのキャピタルレコードの近くのモーテル。キングサイズのベッドが2ある、広い部屋に大きなバスルーム、キッチン。窓からプールが見えた、金髪の美少女が泳いでいた、10分後には俺もそのプールで泳いでいた。声をかけてみた、俺[Hi]彼女返答[Hi]、挨拶だけで会話は続かなかった。
散歩に出かけた、道は広かった、各家の前庭に芝生が植えてあった、映画で見るアメリカの空気そのもの。自動販売機にルートビアーが売っていた、ビールかと思ったら、、、なんじゃ〜これは?不味かったが後で好きになった。3日後代理店から滞在する家庭が見つかったので明日面接に行きますとのこと。場所はウエストハリウッドの丘の上の豪邸地帯だそうだ。
続く、、、